TheMissingWing

「待って」
　エアリスは、突き出した崖の中程で足を止めた。
　前をゆく人影は、光る風の向こうへ進んでいく。
　地鳴りのように響き続ける混沌とした意識の叫びが、声を途中でかき消しているのではないか。そんな気がした。
「こっち、ちゃんと見てよ」
　真っ直ぐに視線を保ち、ロッドを両手で構える。
　セフィロスがきびすを返した。揺れる白銀の刃。
「邪魔をするな」
　その声も、眼差しも、すっかり冷え切ってしまっていた。エアリスの知る優しげなた面影は、何処にもない。
　小さく笑いながら、エアリスからそう離れていないところまで近づいてきた。歩み寄ってくるうちに、端正な顔に浮かんだ微笑は、静かに姿を消していった。
「……出てって」
「何？」
　文字通りの白眉が、微かに動いた。
「出てって！　セフィロスの中から、出ていって！」
　銀の光が、風と幾筋かの髪を切り落とした。
　エアリスは、動かなかった。
　動けなかった。
　喉の奥が苦しい。押し込めた思いが、身体を切り裂きそうだ。
　それでも、声が震えそうになるのをこらえ、セフィロスに向かって言葉を続けた。
「その身体は、あなたのものじゃない。もう苦しませないで」
「ならば、あいつの名を私が引き継ぐことにしよう」
　正宗の柄を離れた指が、エアリスの目前に差し伸べられる。
　指が頬に触れようとした直前、ロッドを持った手でそれを振り払った。
「あなたは、セフィロスにはなれない！」
「黙れ！！」
　次の瞬間、黒い手が口元を包み込み、唇の奥に親指が深くねじ込められた。
　下顎を強く握りしめられた。
　身をよじり、手を外そうとする。だが、食い込んだ指は緩まない。しっかりと舌の付け根を押さえつけている。
「うるさい娘だ」
　まるで、釣った魚を持ち上げるかのように、無理矢理にエアリスを引き寄せた。
　足がもつれそうになって、無意識に黒い腕を掴む。
　強引に頭を上へ向けさせられた。薄く青白い唇が、吐息のかかりそうな距離にあった。碧色の目に、愁いの影はない。
　恐怖を感じた。
「どうした？　恋人からの仕打ちに戸惑っているのか？」
　自分に向かって言っている言葉のはずなのに、何故か、それを言うもう一人の人間を侮辱されているように感じた。
「あいつは、心からお前を思っていた。私にはわからないが、命を失ってでも守り続けたいと願っていたくらいだ。そして、その身体を強く抱きたいと──」
　唇が頬を撫でた。
「──お前もそうか？」
　身体の中心を、炎が逆流した。
　悔しかった。そして、悲しかった。
　エアリスは、押し込められた指に噛みついた。瞼を堅く閉じる。一気に口の中が干上がる。
　舌を打つ音が聞こえて、指の力が消えた。セフィロスは投げ捨てるように、エアリスから手を離した。
　口に手をやると、少し唇の端が切れていた。
　狼狽気味に、セフィロスが言った。
「だが、最後に自分の血をお前に分け与えたのだから、あいつの感情も捨てたものではなかったな」
「血？　何を言っているの」
　漂う意識の声が、激しく耳を叩き始めた。何かにおののき、おびえる悲鳴。輝く波間の下に、もうジェノバが近づいてきているのだろうか。
「お前は資格を得た。私と共に神となる資格を」
　奥歯を噛み締めて、ロッドを胸の前に構えた。
「エアリス、私と来るか？　お前の中で、私の血はまだ生きているはずだ」
　横に首を動かす。
「神様になんてならない。わたしは、人間だから」
　その時だ。
　熱く、大きな衝撃が胸を襲った。
「……え」
　急に、身体に力が入らなくなった。落とさないようにロッドを握るのが精一杯だ。
　かすみかけた視界の中を、真白い光がゆっくりと上がっていく。
「わかった」
　逃げろ、と叫ぶクラウドの声が聞こえる。
　白い光は、正宗の刀身が放つ輝きだった。
「そこまで言うなら、あいつと同じ場所へ行くがいい！」
　頭上に掲げた切っ先が、三日月の線を描いて振り下ろされた。
　目の前が漆黒の世界に切り替わる。
　風圧がエアリスの首を、胸を撫でていく。
　刹那、激しく背中を打ち付けられたと共に、凍てついた時が動き始めた。
　起きあがって手を胸元に当てる。広げた指は、赤い色をしていなかった。
　尋常ではないうめき声。
　肩を震わせるセフィロス。
　その左足に、エアリスに向けて振り下ろされたはずの正宗が突き刺さっていた。ブーツを伝い流れていく鮮血が、早くも小さな水面を作っている。
「何、だと……！！」
　切っ先を引き抜くと、今まで聞いたことのない、別人ではないかと思わせる低い声で言い放った。
「何故だ、何故お前がここにぃ！！」
　両目を見開き、闇雲に斬りつけながら叫ぶ。
　刃はロッドに弾かれ、甲高い音を立てた。
　正宗を握る手が強ばっている。目に見えない強い力が、セフィロスの腕を押さえつけているようだ。
　空を踊っていた刀身の先が、突然、足下に突き立てられた。動きが止まってもなお、肩は上下を繰り返している。
「……早く。今のうちに」
　荒い呼吸の間に発せられた言葉は、優しい響きを持っていた。
　唇の端が、わずかに上へ動く。それは、死に神の冷笑ではない。
　静かな微笑み。
　心に広がってゆく大きな波に、クラウドとの約束を忘れそうになる。エアリスは、今すぐ側に駆け寄ろうとした。だが、手を伸ばしたその時、セフィロスは後へと引いていく。
　エアリスは言った。
「なんで？　迎えにきたんだよ、みんなと帰ろう」
「オレは、駄目だ」
　声に焦りを感じた。
「こいつを押さえている間に、お前達は逃げてくれ」
　セフィロスは指の震える利き腕を、反対の手で強く掴んでいた。
「ジェノバはすぐそこにまできている。お前まで巻き込まれるぞ！」
　浮遊する悲鳴が、地鳴りの如く轟き始めた。
　エアリスの耳の周りだけでなく、周囲の岸壁も大きく揺れ動いている。
　ライフストリームが震えている。
　近づきつつある巨大な存在を、激しく拒絶していた。
「早く……。くっ！」
　次の瞬間、黒い稲妻が走り、銀色の刃が解き放たれた。
　短い牙を鳴らし、碧眼の狼が吠える。
「小娘が……許さん！！」
　振りかぶられた正宗は、光の風を切り裂き、エアリスの鼻先で止まった。
　刀身が揺れている。
　──オレを、打て。
　轟音にかき消されそうな、小さな声がそう聞こえたのだ。
　セフィロスの顔を見上げる。瞳にはもう、殺意の光しかなかった。
　玉鋼の牙が躍り掛かろうとすると同時に、エアリスがロッドを握りしめたのは、半ば反射的な行動だった。
　こんなことはしたくはない。
　だが、セフィロスを悲しませたくなかった。
　鉄の武器を叩き付けた時、ついに最後の線を越えて、一つの滴がこぼれ落ちた。
　自分自身の奥に潜むものに、徐々に自分を奪われていく苦痛が、少しわかったような気がしたのは、エアリスに悪魔の血が息づき始めているからなのかもしれない。
　大量の雑音が、頭の中を埋め尽くす。
　地響きが一層激しさを増してきた。
　崖の下から舞い上がってくる青い光を浴びながら、エアリスは、セフィロスの隣に膝を着いた。
　握った手の上に、大きな滴がこぼれていった。
　大地の震動は強まるばかりで、一向に収まる気配を見せなかった。穏やかだったライフストリームの水面には高い波が生まれ、繰り返し岸壁に打ち寄せている。
「脱出しよう、早く戻って来るんだ！」
　回復したばかりの傷を押さえ、クラウドが叫ぶ。
「どうしたんだ！？　早く！！」
「ごめん、先に行って」
「……何言ってるんだ！」
　岸壁が崩れ落ち、光の飛沫と水柱が上がる。
「わたし、ここにいる」
「来るんだエアリス！！」
　大きく手を振り、強い声で言い放った。
　クラウドも感じているのだろう。恐ろしく巨大な力が、すぐ足下にまで近づいている。
　今いる場所も、いつまで持つかわからない。
「もう、離れたくないよ──」
　指に力がこもる。
「──ごめんね、クラウド。それに、わたし、もう戻れない」
　目元をこすり、エアリスは、そう言って笑った。
　刹那、地鳴りと雑音が消滅した。
　波間から現れたものの雄叫びが、全ての音を遮ったからだ。
　厄災の元凶、ジェノバ。
　その叫びは、歓喜と高ぶりを表していた。
　全身を震わせ、首らしい身体の先端部をそらしている。だが、喜びを歌う側から、巨体の末端は崩れ、腐食していく。すでに骨格が露出している部分もあった。
　ジェノバは死にかけていた。巨大な腐肉となりつつある肉体が、その役目を果たし尽くしているのは、目にも明らかだった。
　だから、セフィロスを探していた。
　自分を生き返らせるために、肉体の中心となる新しい核を求め、生き残っていた子孫を呼び戻させたのだ。
　もし、ニブルヘイムのあの夜から始まった全ての出来事が、このためだけに、あらかじめ仕掛けられたのだとしたら、倒れてもなお握りしめている愛刀に吸い込まれていった血と、自分でない自分に幽閉され、迷宮の底に落ちていった心の涙は、一体何処へ流れていったのだろうか。身が腐れ落ちてもまだ、本能のままに命を食らおうとする、この残酷な神に捧げられていたとでもいうのか。一見穏やかな、寝顔のようなセフィロスの表情。だが、その下にどれほどの虚しさが、やり切れなさが隠れているのだろう。
　手とも触手ともつかない腕状の器官が、岸壁に向かって伸びてきた。粘液に濡れた皮膚が崩れ、肉が剥がれ落ちていく。
　横たわるセフィロスの頭上に、皮膚を広げた腕が覆い被さる。突き出た関節は、今にも骨が外れそうだ。
　迫る指先からかばうように、胸の上に身を乗り出す。
　混ぜもので膨れ上がったようなジェノバの巨体の前に、二人の体は酷く小さかった。その小さな身体を、邪悪な神は一瞬にして飲み込んでいった。
　悲鳴も、全てが消え去った。
　何も残されなかった。