TheMissingWing

　滴と秒針が、互いに違う時を刻んでいる。
　小さな容器にたまった滴は、細く透明な管を経て、目の前に横たわる身体の中へ流れ込んでいく。
　輸液針を着けられた腕が、何とも痛々しい。
　真白い布が、身体を覆っていた。
　微かな呼吸。
　瞳は、まだ伏せられたままだ。
　エアリスは、セフィロスの左手を、両手で包み込むように握っていた。今は、様子を見守ることしかできなかった。
　濃紺の刀袋に収まっている正宗も、ベッドの側の壁に立てかけられている姿が、主人の身を案じて、静かにたたずんでいるように見える。
　部屋には、ベッドと机と椅子が二脚。分厚い専門書がひしめく本棚が、ルクレツィアの部屋の壁をさらに一層厚くしていた。古びた椅子の一つに、エアリスは座っていた。
　カーテンの下から射し込む日の光が、風の動きに合わせて、布に柔らかな波紋を描いている。
　沈黙の中に、時の刻み目だけが響いていた。
　ゆっくりと、名前を呼びかけてみる。
　答えてはくれない。
　エアリスは、手を布の中に戻した。
　その時、ドアノブが鳴る音がして、エアリスは、顔を上げた。
「どう、落ち着いている？」
　ルクレツィアが部屋に入って来た。
「ええ……」
　そう言って、エアリスは頷いた。
「ごめんなさい、部屋散らかったままで。最近忙しくて、いつもこうなのよ」
「いえ、それよりも、セフィロスは……」
「大丈夫よ。だけど、しばらくは安静にさせておかないとね。他の検査もしてみたんだけど、この子かなりコンディション悪いわ。あの人ったら、ちゃんとケアしてあげてたのかしら」
　あの人というのは、恐らく宝条のことだろう。
「このままだと、遅かれ早かれ、身体が参ってしまうから、少しここで休んでいくといいわ」
「ありがとう、ルクレツィアさん。でも、どうして急に、あんなに苦しみだしたんですか？　何か、悪い病気じゃないですよね？」
「──座ってもいいかしら？」
　そう言って、ルクレツィアは、どこか寂しげな微笑みをみせた。
「えっ、ええ。どうぞ」
「ありがとう」
　年期の入った四つ足の椅子に、ルクレツィアが腰掛けた。
「……エアリス、よく聞いて」
　声色に、強い緊張感が現れた。
「さっきの発作みたいなのは、ジェノバ細胞の拒絶反応なの」
　明かされたのは、あまりにも信じがたい真実であった。
　衝撃と軽いめまいが、エアリスを襲った。
「この子への移植は成功だったわ。ジェノバはこの子の体内で、他の組織を破壊することもなく、おとなしくしていた。それが、私達の目の前で突然……」
　ルクレツィアは続けた。
「ほぼ同化したともいえるのに、何故さっきのように拒絶反応を起こしたのか、まだわからないわ。こんなこと記録にもないし、そもそも、これは絶対にあり得ないことよ」
　エアリスは、呆然としながらも、話に聞き入っていた。
　ルクレツィアが椅子から立ち上がった。そして、一歩、二歩と部屋の中を歩き出した。今までの説明的な話し方もあって、その様子は、アリバイの矛盾を語る探偵師を彷彿とさせた。
「原因が、わからない？」
「そうなの」
　くるりと振り返り、ルクレツィアはエアリスに眼差しを向ける。
「全く見当が付かないわ」
「それじゃあ、セフィロスはどうなってしうまうの……！」
「心配しないで。大丈夫よ、拒絶反応はもう治ったから」
　ルクレツィアはそう言って、ゆっくり縦に頷いた。柔らかな微笑みを浮かべている。一人の科学者から、穏やかな母親の表情に戻っていた。
「……本当ですか？」
「安心して。私にも経験あるけど、これって症状が派手な割に、薬で簡単に治るのよ」
　そう明るく言う様子が、かえって、本当は重傷なのでは、という思いを、エアリスに起こさせたが、ひとまずは、安心して心を落ち着かせることができた。
「もう、あんな風にならないんですね？」
「そうよ。ただ、十分に身体を休めさせないとね」
　ルクレツィアは椅子に戻ると、ベッドの掛布を丁寧に整え、セフィロスの額に手を伸ばした。顔にかかった髪を除けてやると、その手で、頬と髪を愛おしそうに撫でる。
「可哀想に。この子は、もっと眠っていたかったのに……それを、無理矢理起こしたから」
「ルクレツィアさん……」
　エアリスは、視線をベットの上に向けた。まだ、セフィロスは目を覚まさない。
「宝条は、セフィロスを生き返らせて、何をしようとしているんでしょうか」
　エアリスの質問に、ルクレツィアは首を振った。
「……私には、もうわからないわ。あの人が何を考えているのかなんて」
　呟くように言いながら、銀髪の頭を撫でている。エアリスの視線は、髪に触れるルクレツィアの指と、瞳を閉じたセフィロスの顔に集中していた。
「でも、多分あの人は、まだ自分の夢を捨てきれないのよ。たとえ、それが間違った愚かな望みだとしてもね」
　そう言ったルクレツィアの横顔は、そこはかとなく寂しげだった。
「……わたし、ここで見ていてもいですか？」
「かまわないわ。目を覚ましたら、私にも知らせてね」
　エアリスが頷いたのを見て優しく笑うと、ルクレツィアは部屋を後にした。
　一人残ったエアリスは、ベッドの上で眠るセフィロスを見守っていた。
　ルクレツィアが退室してから、十分近い時間が流れただろうか。エアリスの指先が、不意に、銀の髪に伸びていった。
　何故、そうしようとしたのか、自分でもわからない。胸の奥底にある、何かを確かめたいという気持ち。それが、行動として現れたのだろうか。
　ルクレツィアがしたように、エアリスは、セフィロスの髪に触れた。しなやかで、少し柔らかい毛質の髪だった。
　薄い色素のせいで、透き通るような印象を受ける。手櫛を入れると、白銀に輝きながら、指の間をすり抜けていった。
　頬にも手を触れようとして、エアリスは、思い止まってやめた。掛布に浮かび上がっていた日差しの波紋が、静かに崩れ始めたからだった。
「どう？　……痛いところとか、ない？」
　エアリスがベッドに身を乗り出して言うと、セフィロスは目を細めて、身体を横たえたまま答えた。
「ああ、もう平気だ。なんともない」
　その一言に、安堵のため息がこぼれ落ちた。
「少し、疲れてるって。休んだ方がいいって、言ってたよ」
「……母さんが？」
「うん。しばらく、ここにいていいってさ」
「そうか……」
　セフィロスが、碧色の眼差しをエアリスに向ける。
「薬で治したから、もう、だいじょぶだって。良かったね」
「……そうやって、オレの心配してばかりしているんだな、お前は」
　言葉を発した後、まだ血の気の薄い唇が、微笑みの形になった。
「だって……セフィロス、いっつもなんか無理して、わたしに、心配ばっかりかけさせるんだもの」
　つられるように、自然とエアリスも、顔に笑みを浮かべていた。
　エアリスは言った。
「だから、つい心配しちゃうんだ」