TheMissingWing

　淡い光。アクア・ブルーと真珠色が、波のように重なり、幾重にも混じり合う。
　絶え間なく吹き抜ける風が、前髪をもてあそぶ。
　ゆったりとしたリズムと、木綿のシーツの中に、身を浸していた。
　まどろみの夢。
　今は、このままで。
　目が覚めてからも、しばらくの間、そう思っていた。
　穏やかな時間の流れに、少しでも長く包まれていたかったからだ。
　コスタ・デル・ソルの一等地に建つ、特別に素晴らしい別荘のベッド・ルームで、いつまでも夢の切れ端にしがみついていたエアリスは、けだるさを振り切るように、ベッドから身体を起こした。ネグリジェの裾をなおして、軽く背中を伸ばす。
　重い瞼のままベッド・ルームを出ると、窓の外には、もうすでに初夏の日差しがあふれていた。
　絵の具で染めたように青い空に、大きな葉を茂らせた椰子の並木。
　ベージュと煉瓦色で統一された街並みが続いていて、建物の回りに植えられた深紅やオレンジのハイビスカスの間を、見慣れない白地に黒の網目模様をした蝶が飛び交っている。
　エアリスは、その鮮やかな景色に、すっかり見入ってしまった。
「起きたのか？」
　声がして、後ろを振り返って見ると、パイル地のバスローブをまとったセフィロスが、髪を拭きながら姿を現した。まだ髪の先から、水滴を垂らしている。
「うん。ちょっと、寝坊しちゃた」
「長旅の疲れが、それだけ溜まっていたんだな──」
　丹念に髪の水気をタオルで取りながら、セフィロスが言った。そして、手近な椅子に腰を下ろすと、部屋全体を見回して言った。
「──それにしても、クラウドはいつの間にこんな別荘を手に入れたんだ？　随分と立派な作りじゃないか」
「時々、みんなと、ここに遊びに来たりするんだよ。とっておきの隠れ家なんだって」
「そうか。……シャワー、先に浴びさせてもらったよ」
「うん。じゃあ、わたしも、軽く浴びてこよっかな」
　そう言いうと、エアリスは、着替えを取りにベッド・ルームに戻った。
　服と下着を手にして浴室に入ると、まだ少し、湯気が室内にこもっていた。
　ネグリジェのボタンを外しにかかった。パール・ホワイトの薄い生地に、水色のリボンが縫いつけられた寝間着を、簡単に畳んで籐の脱衣籠に入れる。
　熱すぎず、冷たくもない、程良い温度の降り注ぐ水飛沫が、半分眠っていた肌を完全に目覚めさせた。寝癖がついてしまった髪を少しずつ濡らしながら、丁寧に指先を通して揉みほぐしていく。深呼吸を一つして、石鹸をつけたスポンジで、身体を軽く洗った。全身の泡を落としていると、不意に、指が胸の上に止まった。
　心臓の真上。
　あるはずのものが、そこにはない。心と身体に深く刻まれたはずの傷跡は、肉体から消えていた。だが、深い記憶の中では、冷たい切っ先がまだ鋭く突き刺さっていた。目には映らなくても、ほんのりと紅潮した肌の下で、赤い口を開いている。神官の手に現れた聖痕の如く、今も見えない血潮が滴っていた。
　身体の傷跡が消えてしまったのなら、心に負った傷も、時を重ねるうちに徐々に癒されていくのだろうか。もしそうでも、時間はかかるかも知れないが、その分だけゆっくりと治してゆけばいいはずだ。少なくとも、今のエアリスには、そう思うこともできた。
　陰鬱な感情を消し去るように、泡立てたシャンプーを擦り付ける。髪全体を洗い終わると、ハーブ・ブーケと称された香りのリンスを馴染ませ、丁寧に流した。
　水音が止んだ。
　シャワーカーテンを開けて出ると、清潔なバスタオルを素肌に巻き付け、襟元に張り付いた、半乾きの髪の毛を指で払う。浮かんだ汗を拭き取りながら、温まった体をしばらく休めた。
　着替えとして用意したのは、空色をした膝下丈のワンピース。その上に、自然な色と質感をした綿のロングベストを重ねて、小さなクロスの飾りがついた革紐のチョーカーを首に結ぶ。
　編み上げた髪をリボンで結び、鏡に全身を写して、細かい部分を確かめてから、浴室のドアを開けた。外からの風が、涼しさをともなって吹き込んできた。
　リビングに戻ると、テーブルの上に、結露を帯びたグラスが一つ、新聞の横に置かれていた。レモン水に砕いた氷が浮かんでいる。
　椅子に腰掛けたセフィロスの髪が、風の吹くままに揺れていた。
「あがりましたよー」
　声をかけたが、返事がない。
　椅子に着いたまま、眠っていたのだった。
　テーブルの縁に片腕を預け、気持ち良さそうに眠っている。そんなセフィロスを無理に起こすわけにもいかず、エアリスは、目を覚ますまで待つことにした。
　備え付けの冷蔵庫から、テーブルのグラスと同じレモン水の瓶を取り出し、新しく持ってきたグラスに注ぐ。
「やっぱり、疲れてるのかな？」
　グラスに入れた氷の弾ける音が、涼風の中に響く。
「そうだよね。色々あったし、大変だったもんね」
　レモン水を口に含み、香りを舌の上で転がしていると、ふと、ルクレツィアが言っていたことを思い出した。
　──もっと眠っていたかったのに。
　言葉の意味は、このまま目覚めない方が幸せだったはずだとも、身体そのものがまだ完全に回復していないのだとも取ることができる。
　座ったまま、眠りに落ちてしまうほどに。
「いいよ、休んでも」
　エアリスは、グラスを置いた。
「だいじょうぶ。ここなら、ゆっくりできるから」
　そう言って、セフィロスの隣に立ち、手を肩の上に置いた。
　特に意味もなく、一筋の髪を手に取り、指先で遊ぶ。
　南国の日差しを受けて、銀の髪が眩い白に輝いていた。
　エアリスは、あることを思いついた。急に顔を出した悪戯心に従って、道具を取りに走る。ヘアブラシ、紺色のリボンを手にして戻ってくると、テーブルにそれらを広げた。
　ブラシを手に、そっと気付かれぬように息を殺しながら、風に揺れる髪に手を当てた。艶やかな毛先は、まだ微かに潤いを含んでいる。
　テーブルにブラシを置いて、流れを整えた髪を三つの束に分けると、手際よくそれを編み込んでいく。手元から、少しずつ銀に輝く鎖が出来上がっていった。
　つい、口元に笑みが浮かぶ。
　次の瞬間。うつむいていた頭が、突如として動き出した。
　驚いて飛び退くと、振り返ったセフィロスは、途中まで三つ編みにした髪の束を持って、固まっているエアリスの顔に視線を向けて言った。
「何をしているんだ」
「えっ？　あー、そのー……ちょっとね」
　明らかに、目が怒っていた。
「楽しいか？」
「え、えーっと……」
　エアリスは、言葉に詰まった。
「……まあいい」
　と言って、セフィロスはエアリスの手を払い除け、編んだ髪を手櫛で元に戻したのだった。
　ささやかな企みは、水の泡となって消えた。
「きれいにできてたのにー」
　椅子から立とうとするセフィロスに、エアリスはふてくされて言った。
「オレはこの方が気に入ってるんだ」
　内心、三つ編みも似合いそうなのに、と思いながら、エアリスは椅子に着いた。指に紺色のリボンを絡めつつ、レモン水を口にする。
　しばらくして、セフィロスが着替えのために部屋に入っていった。
　エアリスは、もう一度窓の前に立った。
　網膜の裏に焼き付くような、強い太陽の光。全ての生き物が鮮明に輝いている中で、淡々とした建物の群は、けだるそうに日差しを浴びていた。
　だが、街を行き交う人々は、そうではなかった。通りのそこかしこに、ざわめきが生まれ、そして、風に弾けている。気取った服に身を包む者もいれば、忙しげに品物を運ぶ人の姿もある。昼前だというのに、酒場の軒先で早々と杯を交わしている者達もいた。
　皆、一様に活気付いている。
　今日は、開港祭なのだ。
　年に一度、西大陸の海の玄関口であるコスタ・デル・ソル港の完成の日を、船舶の安全を祈ると共に、街を上げて祝う。南海のリゾート地恒例の祭典である。
　今は、まだ下準備をしているところが多いが、日が傾いてくれば、街はさらに熱気を増してゆくことだろう。
　何処からか流れてくる打楽器の音色に、気持ちがうずく。
　戻ってきたセフィロスに、エアリスは言った。
「ねえ！　午後、街に出てみない？」
　そう言いながら、窓の外を振り返る。
「それで、夜、港の花火を見に行くの。どう？」
　幾つかの条件を約束されたが、思ったよりも簡単に、セフィロスは縦に頷き返したのだった。
　一人で行動しないこと。
　けして離れて歩かないこと。
　この二つを絶対に守ること。
　それが、別荘を出る際に交わした約束事である。