濡れた靴音が止まった。一見しただけでは廃屋としかわからない、古びた教会の前だった。男は、もう一人の仲間に、顎でサインを送る。
蝶番が外れ、傾いた扉の陰から中をうかがうと、わずかに残っている屋根の残骸の下で、目的の少女は、退屈そうに雨雲を眺めていた。
手には、やや錆のついたバケツを持っている。恐らく彼女は、予定していた作業を、雨のせいで明日へ延期せざるを得なくなったところなのだろう。
天の恵みに、地面は酷くぬかるんでいた。
黒土と朽ちた木屑と植物の発する、独特の有機的な匂いが、彼女の周りを包んでいた。古臭いような、不思議と落ち着く匂い。こんな空気を吸えるのは、巨大都市ミッドガルの中でも、特別な場所だけである。
朽ちかけた聖堂は、輝く命に満ちあふれていた。
清楚ながら美を競い合う花々に、力強く生い茂る緑。葉の上で輝く雨粒と同じ光を放つ瞳を持ち、軽やかな栗色の髪をした彼女、エアリス・ゲインズブールは、その特別な場所の管理人であった。
エアリスは退屈そうに、崩れかかった教会の、屋根に開いた大穴を見つめていた。遠い上の方で、黒っぽい雲が気付かないくらいゆっくりとした速度で動いている。
屋根から落ちる雨垂れが、貴重な土の地面を叩いていた。そこに、一輪の花が咲いていた。鮮やかな色をしたスイートピーである。
蝶の羽のような花びらに、雨の滴がたまっていた。小さな球体は、自らの重みに耐えられず、やがて、緩やかに転がり落ちていった。
男は、それを見据えていた。
聖なる領域に異変が起こったのは、次の瞬間だった。一発の銃声を合図として、二つの影が進入した。
声を上げる間もなく、一人の男が素早くエアリスを取り押さえ、両手を後ろへ縛り上げると、もう一人が忍ばせていたハンカチで鼻と口を塞いだ。
力無く首をうなだれるまで、十秒とかからなかった。
転がり落ちたバケツが悲鳴を上げる。
男が言った。
「急げ」
一人を残して、男は気を失ったエアリスを乱暴に抱えると、教会を去っていった。
雨が、少しずつ止み始めていた。
足下には、踏みにじられた花が一つ。
スイートピーの花だった。
男が口を開き、辺りの静寂を破ったのは、それから少ししてからだ。
──来たな。それが男の第一声だった。
「伝言だ。女を取り返したければ、今夜本社ビルに来い。それ以降の身の保証はないと思え」
男は言った。棒読み気味に、いかにも頼まれて言ったという風な口調だ。
「それだけか？」
「……それだけだ」
男は、深く被った帽子を押さえながら、たずね返してきた青年の横を通り過ぎて行った。
青年は、１８０以上は確実にある長身の体格で、ジーンズに黒いＴシャツ、その上にモス・グリーンのフライトジャケットを着ている。前のジッパーをとめないで、レスキュー・オレンジの裏地を覗かせていた。その髪は、腰よりも長いシルバー・グレイ。青年は湿った空気の中で、教会の花々の前に立っていた。
花を見つめる青緑色の瞳が、炎に似た光を放っていた。
土を跳ね飛ばし、走る影がある。
廃油と錆が混じり合った汚れた地面を蹴り、走る一つの影があった。
それは、一匹の獣だった。
自らの身体にまじないの印を刻み、尾の先に燃え上がる炎と、同じ色のたてがみを持った片目の獣は、人気のない裏路地を、赤い風となって駆け抜ける。
急がねば。
獣は強く思っていた。
ミッドガル新七番街スラム地区。
路地を抜けると、若干人通りのある道に出た。
一人の男が獣とすれ違い、驚いて声を上げたが、買ったばかりの煙草の箱を落としそうになっただけで、それ以上のことはなかった。巨大な猫族に似た、赤いしゃべる動物は、この辺りでは結構有名だったからだ。
目的の場所は、すぐそこにあった。同じ街の、同じ場所に再び建て直された建物は、復興後も相変わらず雑然としたスラム街で、以前と何も変わらない姿を留めていた。看板には、大きく『Ｂａｒ ＳＥＶＥＮＴＨ ＨＥＡＶＥＮ』と書かれている。
勢いよく階段を飛び越えると、店の扉を潜り抜けた。店内には人が二人。カウンターの向こう側に、スラムの酒場には不似合いな、若い女性が立ち尽くし、特徴的な金髪と碧眼の青年が、飛び込んで来た獣の方を見ている。
この酒場を切り盛りするマスターのティファ・ロックハートと、その仲間で、幼なじみのクラウド・ストライフだ。
仲間の急な来店に、どうしたの？ と心配そうな表情で、ティファは獣にたずねたが、赤い獣は、激しく息を弾ませるばかりで何も答えなかった。ここに着くまでの道のりを、全力で疾走して来たからだ。
ティファは、側にいた小さなバーテンダーに、バケツ一杯のミネラルウォーターを用意するように言った。
腹這いになった獣に、クラウドが話しかけた。
「一体どうしたんだ？ そんなに慌てて」
獣は答えようとしたが、喉が詰まって声が出てこなかった。
「何があったんだ？ レッド、ゆっくり話してみろよ」
仲間に、早く伝えねばならないのに、口からは、ただ喘ぐ声しか出ない。
そこへ、おかっぱ頭の小さな女の子が、なみなみと水の入ったバケツを持って来た。女の子が、赤い獣──レッドⅩⅢの前にバケツを置くと、獣は鼻面を水の中に突っ込みながら、音を立てて飲み始めた。獣には、ナナキという本当の名前があるのだが、仲間達は、呼び慣れたこの仮の名で呼んでいた。
「そんなに慌てて、何があったんだ？」
レッドは、バケツの水を半分ほど飲み干して、一息もつかずに叫んだ。
「クラウド！ 大変なんだ！」
四方に跳ねた金髪と、魔晄の影響を受けて、独特の色合いを帯びた碧眼が特徴的なクラウドは、レッドにさらに落ち着くように言った。左耳に緑色の宝石が見える。利用価値の低いマテリアの結晶のくずを使ったピアスだ。
少し話すのをやめて息を落ち着かせると、猛烈な勢いでクラウドに言った。
「エアリスがさらわれたんだ！」
「なんだって！」
「オイラ、さっき家に遊びに行ったら、そしたら、エルミナさんに教会に行ったって言われたんだ。けど、教会には誰もいなくって。今、エルミナさんも一緒に探してくれてるんだけど……」
「けど、どうかしたの？」
ティファが言った。
カウンターの横から、ティファの隣で店の手伝いをしていた少女、マリンが心配そうにレッドの顔を見ている。
「教会の花、みんな踏まれてて……」
その時だ。クラウドの顔色が、明らかに変わった。
「それに、ちょっとだけ火薬の臭いがしたんだ。オイラ、怖くてそのことはエルミナさんには言えなかった」
「エアリス……」
クラウドは愕然としていた。かけがえのないものを、再び失おうとしている恐怖に、心が震えているのだ。
「クラウド、オイラ……」
レッドは、これ以上、仲間の心配を深めないように、不安を押し殺して言ったつもりだったのだが、あまりうまくいかなかった。
「……おねいちゃん」
カウンターの奥で、酷くか細い声がした。
「ん？ なあに、マリン」
「お花のおねいちゃん、またどっかいっちゃったの？」
そう言って、顔を上げた少女の目は、今まさに涙をこぼさんばかりに潤んでいた。右手はしっかりと、ティファの服の裾を握っている。この日は珍しく、ロング丈のスカートをはいていた。ティファはマリンの手を取ると、その小さな手をそっと握り締めた。大丈夫、と繰り返しながら。
「心配しないで。きっと、クラウドが連れ戻して来てくれるから」
「ほんと？」
「そう、だから、マリンは心配しなくていいの」
「また戦いにいっちゃうの？」
一瞬、ティファは答えかねていた。だが、マリンの不安を取るには、今は何が起こっているのかを、きちんと話して置いた方が良いと判断した。
「そうね。だけど、すぐ帰って来るわ。クラウド、強いもの。大丈夫よ、心配しないで……」
そう言ってマリンの手を離すと、ティファは、いつも店じまいの時にするように、カウンターに並んだ酒瓶を戸棚へ片づけ出した。
「ちょっと、ここ片付けるから、向こうへ行っててくれるかな？」
「大事なお話？」
ティファは小さく頷いた。
「──そうよ」
「わかった」
マリンは素直に返事を返した。このくらいの年の子供は、大人達に囲まれて暮らしていると、その曇りのない瞳で、些細な嘘はすぐ見つけてしまうようになるらしい。これから重要な話が交わされるのを知っているのか、マリンは素直に姿を消した。
ティファが、クラウドの方を向いた。
クラウドが、ティファの方を見ていた。
レッドは、カウンターに前足を乗せて、二人の間にいた。不安で、視線が落ち着きを失っていた。
「行くの？」
先に言ったのはティファの方だった。
「……ああ」
「私も行く。いいでしょ？」
クラウドは、首を横に振った。
「俺とレッドだけで行く。ティファは、ここに残っていて欲しい」
「でも、エアリスは私達の仲間じゃない。私も連れてって」
「駄目だ」
「どうして？」
「ティファも、俺の大切な仲間だから」
失意とは違う、ため息が一つ。
ティファは、カウンターに置かれた飲みかけのグラスを手に取ると、底に残った酒を流しに捨て、豚毛製のグラス用の柔らかいブラシでそれを洗い出した。
「わかったわ。クラウド、気を付けて」
それは、つい先ほどまで、クラウドが傾けていたグラスだった。
クラウドはそれを見て、壁に立てかけたバスターソードに手を伸ばした。身の丈よりも長い剣を軽々と持ち上げると、両手で柄を握り締め、その刃を見据えた。
鈍い鉄の色。刃はなまくらに近い。
「心配するな。俺はエアリスを取り戻してみせる」
「クラウド！ 急ごう！！」
レッドが叫んだ。
その次の瞬間、レッドは、一足速く、店の外に飛び出して行った。
「場所は？」
剣を背負ったクラウドが、レッドにたずねた。
「まだ教会の周りに火薬の臭いが残ってる。オイラの鼻でそれをたどって行けば」
途端に、クラウドの顔が変わった。
「……大丈夫なのか？」
「そんなの、オイラに任せてよ！ それよりクラウド、早く急ごう！！」
自信を込めて、レッドは言った。
「そうだな……急ごう」
クラウドは、レッドの後を追った。
深紅の巨体がスラム街に踊り、機械油の虹が浮かんだ水たまりを、計六つの足の裏が蹴り飛ばした。
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