TheMissingWing

　雲一つない三日月の夜空に、死に損ない科学者の歌声が響く。
　声の主は宝条だ。青白い顔に、珍しく赤みがさしている。
　アッパー・ミッドガル零番街零番地。
　完全に廃墟となった神羅カンパニー本社ビルの頂上である。
　元々、ビルの中央のフロアであったその場所は、完全に広々とした屋上となっている。新しい市長がこのビルを放棄してから、零番街周辺は滅多に人の立ち入らない無人地帯となっていた。
　季節も春半ばとなって、夜風の暖かさは日を追って増している。
　すだれのように顔にかかった前髪と、白衣の裾を風に遊ばせながら、宝条は、遥か足下に広がる、小さな街の灯を眺めていた。
　手には素焼きの湯飲み茶碗。もう一方の手には、ウータイ地方の特産品である、米から醸造した酒の瓶を持っている。ラベルには『乱れ桜』と書かれていた──しかし、その中身は、香り高い大吟醸ではなく、蒸留水で割った実験用エチルアルコールである。
　不意に、空を仰ぐ。星は少なく、月だけがぼんやりと輝いていた。上半分が深くえぐれた、細い三日月が昇っていた。
　宝条は、酒瓶の中身を湯飲みに注ぐと、一気にあおった。肴は、水棲モンスターの肉の干物。毒々しい緑色をした塊に囓り付き、咀嚼しては、エチルアルコールの水割りを飲む。無骨な液体に香りも旨味もないが、宝条は、酒にそんなものは求めていなかった。
　メテオの厄災以来、魔晄灯の淡い緑色から、電灯独特の黄色っぽい色に変わった街灯の明かりを、宝条は眺めていた。時折、笑みを口元に浮かべながら。
　計画は完璧だ――そう思うと、笑わずにはいられなかった。眼下に広がる光を、そう遠くないうちに掌握することができるのだ。
　そして、しばらくの間、夜景を見つつ湯飲みを傾けていた。
　そこへ、一人の部下が、緊急階段を派手に音を立てながら登って来た。まだ若い男だ。
「何だ？　ダニエル、騒々しい……」
　ダニエルと呼ばれた研究員は、苦しそうに荒い息を吐きながら、上擦った声で叫んだ。
「セフィロスが逃げ出しました！！」
　青ざめた唇から、宝条の酔いを一発で醒ますようなことを言い放ったのだ。
　宝条は絶句した。紅潮していた肌が、青白い皮膚に戻っていくのを感じた。
「何故だ……」
　ダニエルは、報告を続けた。
「脳波パターンが睡眠状態にあったものですから。……油断しました」
　宝条は、底のつきかけた酒瓶と湯飲みを押しつけると、半ば言い訳に近いダニエルの説明も聞かず、階段を駆け下りた。
　研究室へ戻ると、ドアは開け放たれたままで、水のような透明な液体が廊下にまで流れ出していた。ガラスの破片が散乱している。
「博士っ！」
　宝条が何も言わずに中に入ると、白髪混じりの頭の研究員が駆け寄って来た。
「どういうことだロバート！」
「……博士、見ての通りです」
　ロバートの横で、宝条は黙ったままだ。
　宝条の後に続いて来たダニエルが、息を整えながら報告した。
「怪我人はありません。一人が気絶させられ、服を剥がされて倒れていた以外に今のところ……」
「奴を失ったことが最大の損失だ！」
　強く言い放つと、宝条は、無惨なまでに破壊されたビーカーの前に立った。
　本体を形成する円筒形の強化ガラス板は、内側から受けた衝撃に耐えられず、真白くひび割れ、打ち砕かれていて、透明な液体が流れ出し、足下が水浸しになっていた。
　引き千切られたコード類が、打ち上げられた海草のように散らばっている。
　それ以外に、セフィロスの痕跡に当たるようなものはなかった。
「まだ建物の中にいるのか」
　ゆっくりと、押し殺した口調で言った。
「恐らくは……」
　宝条の気迫に押されながら、ダニエルは、ゆっくり答えた。
「すぐに探し出せ。武器の使用も認める。──ここから一歩も外に出すな」
「は、はいっ！！」
　その場に居合わせていた数人の研究員達は、宝条の指示に押し出されるように、一斉に部屋を飛び出して行った。
　遠のいてゆく足音を聞きながら、一人残った宝条は、大破したビーカーの前で立ち尽くしていた。
　発見された当時、その身体は７０キロ前後のただの塊だった。生体反応も低く、星で最も優秀で力のある生物の命は、外気に触れさせただけで、いとも簡単に消え失せてしまいそうだった。
　あの時のことは、今でも夢に見るほど強く覚えている。
　連絡が入ったのは早朝の日の出前だった。だが、すぐさまヘリを飛ばして現地へ向かった。今を逃したら、明日にも次の吹雪が始まってしまうような気がしたのだ。その日は、長期間続いた吹雪が止み、三週間ぶりの晴天の空が広がることが期待されていた。予感を感じていた。
　目的地へ向かう途中、見上げた空は幻想的な紫色に染まり、雲は銀色を帯びた灰色だった。ドーン・パープル。日の出前のわずかな間だけ、空はこの色に覆われるのだ。
　残骸の下に溜まった魔晄の光が、宝条に、紫の空がワスレナグサの青に塗り変えられてゆき、闇の支配から解放されていく世界を思い起こさせた。
　深い青色の迷宮の先で、純度の高い水晶に似た結晶の中に、静かにたたずんでいたそれは、醜く入り組んだいばらに守られて咲く一輪の花のように、時の流れを忘れて眠っていた。気高く穏やかな表情で、宝条を無言で迎えたのだった。
　ゆっくりと歩み出した時、喜びの言葉が唇を振るわせ、乾いた粘膜が破けて亀裂から温かい血が流れ出た。勝ち誇ったように笑った。
　唇からあふれる血も気にしなかった。
　世界の全てが、自分に微笑みかけてきたような気さえした。
　この研究室に運ばれたのが、今から三年前。氷河に保存されていた肉体は、半年足らずで、かつての戦士としての面影を取り戻すまでに回復した。だが、完全に蘇生するには、まだ十分ではなかった。
　そして、今し方、ついに二つの瞳を開き、息を吹き返したのだ。
　それだというのに、砂一粒の狂いもなく築かれてきた計画が、ここにきて大きく崩れようとしている。
「何ということだ……」
　靴の下のガラス片が、硬い音を響かせて砕けた。