TheMissingWing

　とても暖かだった。
　波の音が聞こえる。
　つま先から、水の感触が伝わってくる。
　柔らかな光。瞼の向こうで揺れている。
　睫毛の間から、こぼれた粒子が無音で降ってくるのが見えた。
　滲む景色の中に、不思議な白い建物があった。
　巻き貝の殻のような外観。周りは水と白い化石林に囲まれている。
　忘らるる都。聖なる泉のほとりだった。
　水晶の砂の上を、穏やかな波が流れてゆく。
　驚いて身体を起こそうとして、暖かい場所の理由がわかった。
　黒い腕が、胸の上で組まれている。袖の所々が切り裂かれていた。
　ゆっくりと、風が動いた。
　首に触れる吐息。
　白い木漏れ日。
　重なり合う木の葉は、艶やかな光沢を持ち、東雲の色彩に染まっていた。
　作り物の花びらか、熱帯魚の鱗か鰭のような、硬質でしなやかな銀と淡藤色の羽根。丁度、手首に当たる場所に、細い月の形をした爪が光っていた。三本の鋭い指先は、緩く内側に曲げられている。
　大型の海鳥を思わせる、幅のある長い羽毛の連なる翼が、エアリスの上に銀色の陰を作っていたのだ。
　名前を呼ぶ声。
　エアリスは、声のした方を向いた。
　碧色の双眸。少し、瞼が重そうだった。銀灰色の長い髪が、傷を隠すように流れ落ちている。
　セフィロスは両目を細めて、そっと微笑んだ。
　笑みの形を取った唇。その輪郭が、急速に霞んでいく。
　身をよじらせ、腕を回して抱きしめた。手のひらが、肩の上に置かれた。
　涙が止まり、嗚咽が収まるまで、セフィロスはエアリスの腕の中に、エアリスは、セフィロスの胸の中にいた。
　子供のように泣きじゃくって、急に恥ずかしくなって、胸元に潜り込むように顔を押しつけた。
　セフィロスは、もう泣くな、とは言わなかった。
　泣いてしまうがいい。心に収まりきらないことは、涙にして追い出してしまえばいいさ。
　伝わってくる体温が、そんなことを言っているような気がした。
　軽く肩を叩かれた。それを最後に、エアリスは、泣くことをやめて顔を上げた。
「どうして……わたし達、ここに？」
「あの後、流されて、ここまできてしまったようだ」
　セフィロスの話によると、大空洞の地下と泉の底がライフストリームで繋がっていたらしいということだった。
　二人とも意識を失っていたため、水際に打ち上げられるまでのことはわからなかった。
「お前、大丈夫か？」
「……うん！」
「怪我、ないな？」
　片方だけの翼は、もうない。鮮やかな瑠璃色のまま、羽ぼうきのようになって落ちていた。
　半分頷いたエアリスの目に、深く切り裂かれた片足が映った。
「怪我……そうだ！　セフィロス、足、見せて！」
　正宗で切った左足の傷のことを思い出したのだ。
　手を払いのけ、ブーツの金具に飛びつく。
「あれ？　堅くて外れないよう」
　苦労して長靴を脱がせると、裾を膝までたくし上げた。臑の傷が、赤い口を開けていた。
「ケアル持ってるから、今、治すね！」
　聖なる光をかざし、傷口を癒す。
　手を引き戻した、その時だった。
「え……っ！？」
　淡い日差しを遮って、銀色の羽根が煌めいた。
　すぐそこの鼓動。自分のリズムと重なり合い、波になる。
　注がれるものを、与えられるままに、全て受け入れた。
　口を塞がれていても構わなかった。考えていることを声にしなくても、気持ちの距離を全く感じなかったからだ。
　様々なものが一緒くたに押し寄せて、心が、身体のあちこちがこそばゆい感覚に襲われた。それを言葉という手段で、果たして何処まで表現できるというのか。
　呼吸さえも尊く感じる。
　唇を離してもまだ、胸にこもった熱は収まらなかった。
　愛おしい温もりを抱いて、寄せてくる波に全てを預けた。消えかけた夢の後を追うように、翼の向こうに手を伸ばす。
　首筋に口を押しつける。襟元に、相手の頬の感触があった。
「終わったんだね」
　指の先に髪を絡ませて、背中に腕を回した。
「ああ。オレ達は最後の決着をつけたんだ」
　大きな手のひらが、繰り返し頭を撫でていた。
「けど……あれは、なんだったのかな？」
　少しして、ブルー・グリーンの瞳を、覗き込むように見上げた。
「ほら、ジェノバを倒した時に、ばーって！　すごかったの。あれ、なんだったんだろうね」
　二つの真珠。白と黒が交わり、力が解放された。
「マテリア、だったのかな？　あれは、魔法？」
「……ジハード」
　始めて聞いたその名。エアリスは、続く話に耳を澄ませた。
　“聖戦”の名を持つその魔法は、あまりに巨大な力ゆえに、扱いを誤れば星すら滅ぼしかねないと知ったセトラの民によって、禁断の術として封印されていた。
　しかし、その戒めを解き放たねばならない時がきた。天から降ってきた厄災を倒すために、封印を解かざるを得なくなったのだ。
　セトラは混沌とした魔力の塊を、癒しと破壊の二つに分割することで、力を制御することに成功した。そして、一方を再び星に危機が訪れた時のために、一方を決して解いてはならない禁呪として、別々のマテリアに封じ込めた。
「ホーリーとメテオ。元は一つの魔法だった……」
「でも、そんなすごい魔法、なんで使えたんだろ？」
　ブーツを履き直しながら、セフィロスは言った。
　あの時は、どうすればいいのかを全部知っていたのだ。無数の知識が押し寄せてきて、二つの魔力をジハード発動にまで導いた。だが、その知識のほとんどは、既に記憶の中に形を留めていないのだった。
「マテリアもなくなっちゃったしね」
「もっとも、二度とあれを使う機会はないだろうがな」
　うつむき気味にそう言いながら、エアリスの肩を、そっと抱え込んだ。
「あったかい──」
　頬を撫でながら、額にキス。
　寝返りを打つように、身体を少しよじらせる。
「──セフィの腕も、胸も、みんなあったかい……」
　浅い眠りにも似た、心地良い時間が過ぎていった。
　翼の影が、不意に、大きく揺れた。エアリスを抱いたまま立ち上がり、天から射す光を見上げる。
「飛べる？」
　冗談っぽく、そう言ってみた。
　以外にも、簡単に頷いたので驚いた。
　身体を抱え上げるセフィロス。
　慌てて、腕を首に絡める。
　銀の双翼が、静寂に叩き付けられた。
　飛翔を感じた。次の瞬間には、遙か高みに舞い上がっていた。
　翼は軽く打ち下ろされただけなのに、二人分の身体を、軽々と浮き上がらせたのだ。
　静まり返っていた大気を裂き、空へと駆け上がっていく。
　加速は、大地の呪縛を貫いてゆく。
　風鳴りに、羽ばたきの音がぶつかる。
　顔に当たる風が変わった。強く、冷たく流れていた。
　閉じていた瞼を開くと、二人は、紺碧の真下に浮かんでいた。
　感嘆の吐息がこぼれる。
　無限の空と大地。その狭間にいたのだ。
　万年雪をまとった山脈、黒く重なり合う森林の先は、真綿を散らした青い天空に包まれていた。
　遠く、何処までも遠く続く世界。
　二つの腕の中で、不安は一切感じなかった。
「ねえ！　これから、何処に行く！？」
　エアリスは言った。
　微笑みながら、セフィロスは眼差しを地平線に向ける。
「何処にでも行けるさ、何処にだって連れていってやる！」
　力強く、優しい声だった。
　翼の先端が真っ直ぐに広がり、大きな風を捕まえた。ぐん、と上へ身体を引き寄せられていくのを感じた。
　──あの光の向こうで、一つになろう。
　気流をかわしてひるがえり、翼は碧空の彼方へと滑空を始めた。
　限りなき青の果てへと。